私の天文遍歴(黎明編その1)

1959〜1964

私は1959年=昭和34年6月5日生まれ。
生まれたのは父の赴任先である大分。
大分駅にほど近い産院で産声を上げたのは未明の午前2時すぎのこと。
大変な難産の末に、この世に生を受けたのだそうだ。

県庁所在地とはいっても九州の一地方都市。
昭和30年代半ばの大分はアルバムの白黒写真でしか伺い知れないが
たいへんにのどかな土地柄だったらしい。
ただ、 その年の暮れには父が福岡に転勤になり、大分の記憶は全く残っていない。
福岡での暮らしの途中から、私の記憶が定着をし始めている。

福岡では鉄筋コンクリート4階建てのアパート住まいだったが、
当時はまだそれほど数も多くなく、周囲には平屋の瓦屋根が続いていた。
ベランダ、今風に言えばバルコニーの向こうに見える山並みが幼い最初の記憶だ。
福岡時代で特に記憶に残っているのは幼児時代に見た洪水である。
長い間記憶…想い出として脳裏にあったのだが、
40年近く経って日付を特定することを得た。
古書店で入手した日本気象協会の天気図・記事集成によってわかったのだ。
私が体験したのはどうやら1963年6月30日に福岡県を襲った集中豪雨のようだ。
記事には、突如朝方から襲った豪雨のため福岡市で19000戸が浸水、とある。
そう、その日の記憶は鮮明だ。
朝、母に起こされると外は激しい雷雨で、見下ろすアパートの周囲が水浸しだったのだ。
私は4歳になったばかりの頃だが、熱い味噌汁が出た朝食を覚えている。
その日、放送局勤めの父は、同じアパートの人たちとゴムボートで出勤していった。

もともと両親の郷里である東京に移ったのは、父が転勤になった、この1963年の夏。
東京へ移動する途中に寄った奈良の大仏殿。
その石段脇から転落して、オデコに巨大なタンコブを作ったのも想い出。

東京では西武新宿線の下落合の近くが新しい住まいだった。
今思えば、ずいぶん新宿に近いところに移り住んだのだが、
行動半径の狭い子供には自宅周辺だけが日常のほとんどすべてである。
この頃はまだ、特段の星の記憶はないが、カミナリが怖くて、夕立の記憶は驚くほど鮮明だ。

1964年は幼稚園に入った年。 10月東海道新幹線が開業。
当時は「夢の超特急」という言葉があちこちで聞かれた。
その夏には、開業前の一般試乗会にも乗っている。
東京と静岡を往復したのだが時速200キロという未体験スピードはピンと来なかった。
それよりも客車についていた(アナログの)速度計が物珍しかった。

10月10日は東京オリンピックの開会式。
新宿区内に住んでいたが、あの日の抜けるような青空は忘れられない。
遠くの空(国立競技場の方向)に5色の飛行機雲で五輪マークが描かれた。
大会の期間中に、できたばかりの首都高速を、夜タクシーで走った記憶がある。
父が「ほら、あれがオリンピックの聖火だよ」と指さした暗闇の向こうに
オレンジ色の炎が、音もなくそれでいて激しく燃え上がっているのがはっきり見えた。
この鮮やかな東京オリンピックの聖火の映像も網膜に焼きついた「大きな体験」であった。


この頃から夜空の星や月に対するなんらかの「覚醒」があった。
幼稚園の先生が、ミッキーとドナルドの月旅行を描いた
ディズニーの絵本を紙芝居風に読んでくれたのだが、
何で覚えたのか、私が「お月さまには丸い穴がたくさんあるんだよ」と言ったことを、
先生がみんなの前でとても褒めてくれた。
父からオリオン座や北斗七星という名前を聞かされたのもこの頃。

天文に絡んでインパクトがあったのは、初めて見た日食である。

ある日、先生がみんなに下敷きを持たせて幼稚園の庭に連れ出した。
下敷きを通して太陽を見てごらんと言うのだ。
私が手にした緑色の下敷きを通して見えた太陽は黄色っぽかったが、
その隅が、くるりと円く欠けているではないか。
きっと先生は「お月さまがお日さまを隠しているんだよ」とかなんとか言ったはずだ。
しかし私が今でも覚えているのは、別の先生か保母さんが言った
「龍がお日さまをかじったんだよ」という方のお話だ。
中国あたりの神話の話だと思うが、子供心にはそっちのほうが印象的だったのだろう。

1964年の部分日食

後年、私が天文少年になってから、この日食が
1964年12月4日午前の日食であることを図鑑で知った。 感激した。
東京では太陽のみかけの25%くらいが欠ける軽微な部分日食だった。


日食の原理も周期性も知らない幼稚園児は、
それから毎日晴れていれば、下敷きでお日さまを見るのが日課となった。
でも毎日毎日お日さまはまん丸であった。
先生も知ってか知らずか、私に日食はごくたまにしかないことを教えてくれなかった。

昭和30年代の終わりに、私の中で星の種子が芽を出した。