私の天文遍歴(立志編その3)

1968


念願の天体望遠鏡が届き、組み立て、さあ中天の月を見ようと望遠鏡を南の空に向けた。
ところが、一向に月が視野に入らない。
接眼レンズもはまっているし視界には障害もないのだが、どうしても見られない。
そうこう悪戦苦闘するうちに、月はむら雲に吸い込まれてしまった。

しっかり説明書を読み、じっくりやれば良かったのだ。
ファインダー(案内望遠鏡)がついているのに、合わせることも使うこともしなかった。
素人考えでいきなり倍率の高いアイピース(接眼レンズ)をつけた。
高倍率では視野が極端に狭くなって、なかなか天体が導入できないのは
基本中の基本なのだが、ろくに考えもしないでただただ鏡筒を振り回していたのだ。
ピント合わせの概念すらあったかどうかわからない。
まあ、ずいぶんいい加減なガキんちょだったのは間違いない。

それからしばらくは梅雨の悪天続き。
やっとの晴れ間に再び望遠鏡を持ち出すのだが、やはり星が見られない。
このあたりは、今考えてもなんで星の片鱗すら見られなかったのかは???。
何か、決定的に間違ってたことをやっていたのだろう。
しかし意地を張り通して親にも誰にも手助けを求めはしなかった。
兄弟もいないので、手なずけられない天体望遠鏡と睨み合いである。

ある日学校から帰ってくると、望遠鏡が箱にしまわれ、
タンスの上に片付けられてしまっている。
母に抗議をしたが、「全然見られないじゃないの、邪魔だからしばらく片付けといて」と、
一蹴されてしまった。 それで引き下がった自分も情けない。
あんなに欲しかった天体望遠鏡だったのに。 ふがいない小学校3年生であった。

実はこのあとおよそ1年にわたって、望遠鏡はタンスの上から降りてこなかった。
でも天文熱は冷めるどころかますます熱を帯びてきているのである。
時折、椅子に上ってタンスの上の箱に手を伸ばし、マニュアル冊子は読んでいたのだ。
マニュアルの表紙の、月面写真のクレーターが少年の夢を掻き立てる。

1968年10月6日。 
54年ぶりに中秋名月と皆既月食が重なるという天界ショーが巡ってきた。
新聞記事で知ってからスケッチブックに月を描くための円をいくつも書いたり、
準備を万端に整え当日を迎えた。
午後7時に欠け始めて、8時に皆既食。 10時半には月食が終わるという、
小学生にはおあつらえ向きの月食だったが、東京は午後遅くから曇り空。
それでも路地に新聞紙敷いて座り込んで空から目を離さない私の前に、
7時半頃だったか、半分に欠けた月が姿を見せた。
「あ〜、見える見える! 月食だ!」
喜びも束の間。 30秒ほどで月は雲の向こうに姿を消し、その晩は2度と姿を現さなかった。
「もう家に入りなさい」と言う母の声を無視して、私は10時半まで道に座り込んでいた。
たかが月食。 しかし、天文成長期の私には屈辱さえ感じる敗北だった。

この年の12月、人類が始めて月のそばまで飛んでいくというアポロ8号の快挙があった。
ボーマン、ラベル、アンダースの3人を乗せたアポロ宇宙船のサターン5型ロケットは、
12月21日の日本時間午後9時51分に轟音と巨大な炎を発して、ケープケネディを飛び立った。
アポロ時代の本格的な幕開け。 打ち上げはNHKのテレビ中継でしかと見た。
打ち上げ時刻の細かい数字は34年前に覚えたそのままなのである。

12月24日、クリスマスイブ。 アポロ8号は月を周回する軌道に乗り、「孫衛星」となった。
東京は快晴。 すばらしい夕暮れを覚えている。 南西の群青の空に純白に輝く宵の明星。
その左上に、月齢5日ほどの欠けた月。 そのまわりをアポロが回っていると思うと
少年の胸は熱くなったものである。
祖母がローストチキン(当時は年に1、2度のご馳走)を買ってくれた。
アポロが飛んでいたからこそ、そんなことまで鮮明に覚えている。

有名な「地球の出」の写真
Apollo8 NASA
the Earth rises


夜は、月からの生中継があった。
画像は白黒だが、見下ろす視界に間近に見る月面のディテイルが広がり、
クレーターが画面の左から右へと、尽きることなく流れていく。

それは翌1969年にクライマックスを迎えるアポロ月面探査のプレリュードだった。

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