私の天文遍歴(成長編その7)

1972


適応力の高い(?)masarukは、秋口にはもう広島弁らしきもので喋っていた。
周囲に小高い丘陵や山があり、いくつもの川が海に注ぐ広島の街が大好きだった。 
ついでにその頃リーグのお荷物と言われた
広島カープも、熱烈支持者を一人増やした。

1972年の天文界の大きな話題は
「ジャコビニ流星群」である。
ジャコビニ流星群は、太陽を巡る周期6.5年の「ジャコビニ・チンナー彗星」が母体。
正式名称は「竜座γ(ガンマ)流星群」と言う。
1933年にヨーロッパ、1946年にアメリカで流星雨を降らせて脚光を浴びた。
周期6.5年ということは2倍で13年と端数がとれる。
彗星が太陽を2周回する13年ごとに、地球の軌道を彗星の関係が良くなり、
軌道に撒かれたチリが地球とぶつかってたくさんの流れ星が出るのでは、というものだ。

13年で並べると、1933・1946・1959・1972ということになる。
確かに1972年はめぐり年なのだ。
では1959年はどうだったのか?天文関係者は期待したが結果はスカであった。
(その代わりmasarukが空から降って誕生したが・・・)

流星群の出現はデリケートなものである。 
母天体と地球の軌道との接近具合とかそのタイミング、さらには撒かれたチリの濃淡など、
計算できる要素と不確実要素が複雑に絡み合い、フタを開けなければわからない。
特に流星群として若いとされるジャコビニ群などはそのギャンブル性が顕著なのだ。

1972年の場合は日本時間の10月9日午前1時頃に、地球は彗星軌道から
わずか11万km(天体スケールではほとんど接触)を通過する。
これは彗星がその地点を通過して54日後であり、過去の例に照らしても、
チリ=流星物質がたくさんあって不思議はない。
しかも月齢は2で、観測の妨げになる月明かりもなし・・・
プロ、アマを問わず天文関係者が大きな期待をするのは当然のことだ。
それどころか、マスコミが大きく取り上げたことから
世間でも
「ジャコビニフィーバー」が起きたのである。
その具体的な事象として、天体望遠鏡や双眼鏡が多いに売れ、
(流星見るのに天体望遠鏡など全然必要ないのだが・・・)
10月8日深夜から9日未明にかけては、ネオンやサーチライトの自粛という、
星空を守るという点では画期的な社会の動きにもつながった。

私もあれこれ観測の計画を練り、当夜は父にクルマを出してもらい、
広島市北郊の丘陵地に出ることにしていた・・・が、
天気予報は悲観的・・・いや実際、10月8日にはどんよりと雲が広がり
日が暮れてから広島の街には雨が降りこめたのである。

雨は夜の9時頃からはいよいよ激しさを増した。
沈うつに湯船につかる私の気持ちを嘲笑うかのように

窓からは、地上を打つモノトーンの雨音が間断なく響いた。 完敗の夜だった。


明けて10月9日の朝、NHKの朝番組「スタジオ102」に
国立科学博物館の村山定男先生(後の五島プラネタリウム館長)が出演している。
話の内容に耳をそば立てると・・・
「えっ、空振り!?」
そう、ジャコビニフィーバーに乗った人たちはみな、賭けに負けたのである。
天気がまずまずだった東日本、北日本、そして大陸へ遠征した人たちの頭上にも
ジャコビニ流星雨はその片鱗さえ見せなかったのだ。
中学1年の天文少年masarukは、正直なところちょっと慰められた気分だった。
ジャコビニフィーバー新聞紙面
ジャコビニフィーバー
まあ、意味なしとはしませんよ。
大勢が夜空に目を向けたのだから・・・

このあたりのいきさつに違った視点と彩りを添えてくれるものがある。
それは松任谷由実、すなわちユーミンが1979年に出したアルバム
「悲しいほどお天気」のラインナップトップの曲、「ジャコビニ彗星の日」である。
歌詞には・・・「♪ 72年10月9日・・・」がしっかり入っている。

Yuming 悲しいほどお天気ジャケット
松任谷由実
「悲しいほどお天気」
1979.12.9発売
TOEMI
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