私の天文遍歴(充実編その8)

1981〜1982


昭和56年。大学生活もいよいよ第3コーナーから第4コーナーのふくらみ。
2月の追い出しコンパで4年を送り出すと、我々の代が天文研の支配層(笑)である。

この年の早々にはブラッドフィールド彗星が夕方の西天に出現。
前年の秋以降ちょくちょく出入りや居候をさせていただくようになった、
山梨県・甲斐大泉のペンション「ステルラ」で、
氷点下の八ヶ岳おろしに吹かれながら、カラ松林の上にその姿を確かめた。
ブラッドフィールド彗星 Jan.81

ブラッドフィールド彗星(1980t)

1980年12月17日に豪で発見された、
ブラッドフィールド氏11個目の発見彗星。
81年が明けてから、日本でも観測条件が良くなった。

                天文研 中島宏夫君撮影
冬のステルラドーム

ペンション ステルラ

JR(当時国鉄)小海線の甲斐大泉駅の南、
俳優の柳生博や桃井かおりと同じ別荘地にあった。
柳ジョージに似ていたおヒゲのオーナーと懇意になり、
シーズンには居候でスタッフワークをして過ごした。  
現在、建物は企業の保養所になっている。
なっている


春に、都心の一等地とも言うべき渋谷区広尾から北千住のマンションへ移る。
14階建ての12階ということで当時としてはかなり星に近いほうであった。
学生の身としては、「都落ちじゃ〜」という気分の下町移住であったが
商店街の充実ぶりは広尾の比ではなく、千住の暮らしやすさは特筆物。
この頃から上野や浅草に出入りを始める。

千住へ移った直後の4月12日。スペースシャトル1号のコロンビアが宇宙へ発進。
この日は奇しくも20年前の1961年に、ガガーリンを乗せたヴォストーク1号が、
カザフスタンから舞い上がった記念日でもあった。
特に日本時間の15日早朝の帰還生放送が感動ものだった。
濃い大気層に降下してきて生じた衝撃波(ソニックブーム)が砂漠に轟き、
青空に現れた白い点がみるみる三角翼の姿に変わり、あっという間のタッチダウン!
宇宙往復機の実用化を大いに実感した出来事だった。
シャトルも、はじめの1、2号は外部燃料タンクまで純白に塗装され、
さながら白鳥のような優美な姿であったが、3号からタンクは赤褐色のまま使用。
NASAとしては1万5000ドルと、塗料の重量270キロの軽減という一石二鳥だったのだ。

学生時代最後の夏休みに入った7月。
31日にはシベリアからサハリン、太平洋に抜ける皆既日食があり、国内全域で部分食。
天文研のメンバーは帰省中の実家で見る者、八ヶ岳方面にでかける者、
少しでも皆既帯に迫ろうと、最大食分87%の稚内に遠征する者などさまざま。
私は、O君、N君をはじめとする4人組で、
70年代半ばから続く天文ファンの祭典である「星空への招待」が例年より早く開かれる
福島県・吾妻連峰の浄土平へ向かった。福島の食分は66%である。
30日は夜にかけて気まぐれな悪天候。
そして日食当日、朝のうちは雲が多いながらも、次第に雲は綿雲に分解。
日食の始まる1時間前には海抜1700mの澄み切った青空が広がった。
真夏の、しかも高山の強い日差しの下、天体望遠鏡が林立。壮観である。
正午前に日食ははじまり、「欠けた」の声や歓声が上がる。
6割も欠けてくると、明らかに空の青さが深くなる。やがて金星がくっきり見え出す。
13時過ぎ、最大食分の66%余り。太陽面に散らばる黒点と月の陰影が鮮やか。
そして14時半過ぎに太陽はもとの姿に。浄土平は拍手と歓声に沸いた。
大盛況の浄土平 最大食分66.6%の太陽像

「'81 星空への招待」 日食観測


福島県・浄土平は人と望遠鏡が占領。

最大食分は66.6%
快晴の空の下、
心ゆくまで楽しめる日食だった。
太陽ねらうmasaruk '81 星空への招待 シンボル旗

海抜1700mの清澄な大気のために
気温より日差しが強烈。
真夏の日食観測の定番ファッション(?)

星空への招待、シンボルフラッグ。
藤井旭さんデザインのおなじみのもの。
チロは翌年から額に☆つけて登場。
それにしてもこの青く澄み切った空!


その夜も快晴と最高の透明度は変わらず、満天の星空に酔いしれた。
たくさんの星空写真をものにした夜であった。
「星空への招待」のマスコットで、当時、全国の天文ファンに親しまれていた
天体写真家・藤井旭さんの愛犬チロはこの年の9月に亡くなったので、
このときが多くの天文ファンとの最後の交流であった。
浄土平の鷲座

美しい浄土平の夜空

昼間の日食に続いて、夜は星三昧。
最高の条件に恵まれて、
それこそ1個1個が遠近を主張するような
豪華な星空を堪能できた。 「鷲座」付近。
50mm F1.4を2.8に絞る 露出10分
フジクローム400 手動ガイド

8月下旬の天文研恒例「夏合宿」。また千葉県・吉沢での熱い合宿がやってきた。
4年の我々は「殆ど王様」状態であった。もともと押しと個性の強い我が16期。
その元気のいいメンツが、初日から最終日までデーンと陣取って大きな顔しているのだ。
日中の討論とか、堅いメニューは3年以下に任せ、我々は昼間から散歩・ドライブ、
墓場で酒盛り・・・(ホント)
それでも夜の天体観測にはマジメに参加していたのが、DNAのなせる業。

10月、就職協定解禁。3年次から青田買いのはじまる現代とは大違い。
私は強いマスコミ志望があったわけではないが、
科学番組の制作に関心があり、ガチンコ科学番組では独壇場だった「産業科学部」を持つ、
公共放送を受験。志願書記入の順位は「@制作AアナウンスB取材C経営管理」であった。
何段階ものステージを経て、11月9日夕刻、自宅の電話が鳴る。
「NHK人事部ですが、アナウンサーとして採用ということになりました・・・」
こうして、社会人としての私のレールが先に向かって伸びた。

少々肩の荷が下りたところで、オフコース、ユーミン、チューリップなど聴いて、
学生生活の仕上げの時期を過ごした。
星も眺め、八ヶ岳にもちょくちょく出かけた。自由な時間はあと数ヶ月。

1982年、昭和57年が明けた。
卒論が追い込みに入る。 テーマは「流星の眼視観測・・・」
マジメな学生やってたわけではないが、星で卒論を書けるところは大学選択の妙である。
そんな日々の中、1月10日に夜明けの皆既月食。
東京は快晴で、千住のマンションの北西面通路から全経過を観望した。
Galleryにそのときの一枚がある。
月食の終了が月没の10分前で、大気差で歪んだ月と、
180度反対の地平線に顔を出した太陽のコントラストは、息を呑む美しさだった。

最後は徹夜もして、本編ページ数にして120ページの卒業論文が書きあがった。
提出期限の2日前である。

1月終わりに学生時代の思い出が詰まった五日市観測所に、
4年生ばかりが集まっての「星」と「酒」の合宿。
最終日未明に雪に見舞われ、あたりは一面の銀世界。
いつのまにか夜明けの空は晴れ渡り、銀世界と透明な夜明けの光景がだめ押しプレゼント。
五日市雪景色1 五日市雪景色2 五日市雪景色3

五日市観測所雪景色


多くが寝ている中、
私、O君、H君の3人は
美しい夜明けに感激。
子供のようにはしゃいだ。
1982年1月29日早暁

2月、健康診断にパスして「入社(入局)」が確定。
卒論も無事「A」・・・(これはオマケでしょう。S先生感謝)」

天文研の卒業生追い出し行事も進み、いよいよ3月。
まず天文研同期と何故か岐阜の下呂温泉に「卒業旅行」。
(欧米や海外に行く近頃の学生クンとは、ソートー違ったナ)
2泊3日は最後の思い出づくりとしては本当に楽しかった。

3月下旬に深夜に東京を発車する普通列車「大垣」行きを乗り継ぎ、単独京都旅行。
古都の空気をたっぷり吸って東京に戻り、翌25日が武道館の卒業式。
学生でも社会人でもないような空白の日々が5日ほど・・・さて、何をして過ごしてたか?

そして3月31日、翌日の入社式を前に、世田谷・砧にある「中央研修所」に入所。
最初の一週間は地方出身、東京在住を問わず、寮での合宿生活なのである。
同期のアナウンサー(のタマゴ)たちも続々到着。
NHKの1982年入局同期は全職種で約360名、アナウンサーは13名だった。

フェアウェル! 私の学生時代。