私の天文遍歴(巡航編その1)

1982

4月。 学生気分をまだどこかにひきずりつつも、社会人としての現実に直面の日々。
NHK中央研修所での日々が重ねられていく。
男性12人、女性1人の同期13人で、理科系出身は私だけ。
(ちなみにアナウンス採用では、出身学部学科は問われません)
最初の1週間は、世田谷のNHK中央研修所「砧寮」に缶詰合宿だったが、
自宅生はそのあと砧への通勤の日々である。
私は北千住から千代田線、小田急線直通で通ったが、
常磐線からの乗り入れの千代田線のラッシュはハンパじゃなく、
手すりのパイプに押し付けられて肋骨が「ミシミシ」と鳴り、
マジに「生命」の危機を感じたこともあった。とにかく大手町あたりまでがスゴイ。
このあたりが出かける時間にある程度の裁量が持ち込める学生との違い。

アナウンサーとしてひとり立ちするための研修の日々は、
「楽しさ」「辛さ」「厳しさ」がチャンポンになった、時間感覚を少々喪失した日々であった。
とにかく昼食後の午後の座講が眠くて眠くて、それはまるで「取調室の拷問」である。
座講での理論勉強、知識の吸収はもちろん、実践トレーニングも多彩であった。
私はNHKに入るまでは放送関係のサークルや専門学校とも無縁だっただけに
毎日毎日が面食らうことばかりだったが新鮮であった。
アナウンスの基礎(発声・発音・滑舌など)トレーニング。
ニュース原稿のエッセンスを正確に掴んで、自然に伝える感覚のトレーニング。
取材・企画の訓練、原稿出稿、カメラリポート、編集トレーニング。
国会、最高裁、気象庁などの見学。 多摩ニュータウンでの営業研修・・・。
確かに濃密な研修だった。 手許にある研修日誌の行間に苦悩する22歳の姿がみえる。
経験としては2か月の東京研修なのだが、
生身の感覚としてはその何倍もの時間、研修に身を浸していたような感じ。
しかし何事でもそうであるように、この2か月こそ、
その後のアナウンサーmasarukの原点。
今なら頭下げてでも「お願いします!」と門を叩きたい重厚な日々であった。

そんな日々に星をまともに見る余裕などあろうはずもなく、
ヘロヘロになって帰宅するか、アナ同期と飲んで憂さ晴らしするか・・・。
それでも、研修合間の休日には、残り少ない東京での日々を惜しみ、
大学天文研の同期や後輩と、飲んだり騒いだりもしていた。

6月2日。 いよいよ赴任先内示の日がやってきた。
私の希望は一応「東京より西」であった。
これまでの人生が東京&以西ばかりだったからという漠然とした理由である。
この時代はアナ採用数も少なく、女性を除いては、本当の地方都市からのスタートが
ごくあたりまえだったが、まあ日本の西半分か東半分かの希望くらい叶うかと思っていた。
同期13人がひとつの部屋に入り、五十音順に赴任先が告げられていく。
私の番 「・・・君、山形放送局放送部」・・・!?
「ヤマ…」と聞こえた瞬間「ああ山口か」と思った。
が、次に続く言葉は「…ガタ」であった。

ま、仲間にも悲喜こもごもいろいろあったが、とにかく決まった。
同期唯一の女性が「東京」(彼女はその後も21年間ずっと東京である)。
男軍団は北から順に
「室蘭・青森・山形・富山・福井・鳥取・松江・高松・佐賀・大分・長崎・宮崎」に散開!

6月4日は研修の打ち上げ! 翌5日は私の誕生日、
天文研の仲間が大学近くの馴染みの飲み屋で誕生祝&壮行パーティーを開いてくれた。
荷造りや身辺整理に追われる。
8日頃からぼつぼつアナウンサー同期が赴任先に散り始める。
北海道や九州の連中は羽田空港から。 中国・北陸などの連中は東京駅から。
そして東北へ赴任する私とMアナは上野駅から。
同期でただひとり東京に残るKアナがすべての旅立ちを見送ってくれた。

1982年6月9日。
同期のAyumiアナや研修所の先生の激励の言葉、
見送る家族や親戚、友人の姿は今でも鮮明だ。

私は山形、同期のMアナは青森赴任だが、まずは東北管内を束ねる仙台放送局に向かう。
東北新幹線はこのちょうど2週間後、6月23日が大宮・盛岡間の暫定開業であり、
我々はL特急「はつかり」で仙台に旅立った。上野から4時間30分である。

昼過ぎ、生まれてはじめて東北地方、「杜の都」仙台に降り立った。
初夏ながらその空気は気持ちよくサラリとしていたのを覚えている。

青葉城跡にて

1982年6月9日 青葉城跡にて

赴任の挨拶に東北の親局を訪問。
しばし先輩が名所案内をしてくださる。
左:masaruk 中央:大先輩O崎アナ(仙台放送局)
右:同期のM町アナ(初任地=青森)

仙台放送局でアナウンサーの先輩方から次々に歓迎の言葉を浴びせられ、
チーフからはこれからの心構えや東北地方の放送の地域性などレクチャーを受けた。
初めての夜は多くの先輩方に囲まれ「三陸の海の幸」で大歓待された。
初めて「ホヤ」を食したが、私がすぐに気に入ったため、「君は飲兵衛だ」と看破された。

6月10日快晴。 M君と仙台駅で別れ、私は10時3分発の急行「仙山3号」で山形へ。
緑濃い奥羽山地に分け入り、車窓に飛び込んでくる
モクモクと湧き上がるようなみちのくの緑に見入ってしまった。
やがて東北の脊梁山脈に迫り、長い面白山トンネルをくぐって山形県に。
ほどなく山寺駅。 車窓からも山肌に有名な「立石寺」の建造物が見え隠れ。
そして山間を抜けて山形盆地に入ったとき、彼方の地平線上、
白く丸い雪山の頂が、真っ青な空に容積を食い込ませているのが目に飛び込む。
霊峰「月山」を始めて目にした瞬間であった。6月に、見事な雪の輝き。
東北に来たんだということを、改めて実感したのはこのときだった。
その光景は素晴らしく印象的で、鮮やかさそのままで脳裏に浮かぶ。

11時15分、急行は山形駅にすべり込む。 5年2か月の山形暮らしが始まった瞬間。
駅には、6年先輩のI澤アナが迎えに来てくれた。
このI澤さんにはあらゆることを教わり、現在に至るまでお付き合いただいていることを
書き添えておきたい。 まさに我が「アナウンスの師」である。

当座の着替えなどを詰め込んだ大きなバッグをガラガラ音を立てながら引っ張りつつ
「我が人生最初の職場」、NHK山形放送局へ向かった。
待ち受けていたアナウンスの親分の笑顔の歓迎の言葉と
新人アナを見定めようという周囲の視線。 身が引き締まる思いだった。

山形最初の夜はもちろん先輩たちの歓迎。美味い馬刺しと清酒が忘れられない。
このあと2週間くらい毎晩「歓迎飲み会」だった。

アナウンサーとしての「初鳴き」は翌日6月11日。
忘れもしない12時58分のラジオ第一放送のローカルステーションブレイク。
ついでに14時55分のニュースも読んで、とにかくあれよあれよとデビュー。
私のアナウンサーとしの仕事はこの日合計7分間のラジオで始まったというわけ。

新しい土地に住民として定着するのだからまずは早速、住まい探しにかかった。
しかし気に入ったところは、前の入居者との関係で月末まで待つことに。
結局このあと半月も放送局内の休養室(通称・NHKホテル)に寝泊り。
究極の職住接近とはこのこと。

山形で最初に星空を眺めたのはこの6月11日。
放送局の屋上で鉄塔の根元から見上げた初夏の星空がきれいだった。
県庁所在地とはいえ、東京とは比べ物にならない美しい星空に心和んだものである。

山形放送局、頭上の星空

日記帳に残る当時の挿絵(82年6月11日)


山形に赴任し、放送局に寝泊りを始めた頃。
放送局の屋上から見上げる初夏の星空。
鉄塔の右側は、冠座のイメージと見受けられる。
これも個人史の記念碑のひとつのようなもの・・・

今でもあの、山形でひとり暮らしを始めた頃のことを思うと、
何というのか、自分の原点のひとつを振り返るような懐かしさがある。
masaruk23歳。まだまだアナウンサーのヒヨッ子である。