私の天文遍歴(巡航編その4)

1984

1984年=昭和59年。天文の世界では目だった現象が少ない静かな年だった。

この、山形2度目の冬はかなり寒く、雪もけっこう降って雪国らしい雰囲気に包まれた。
クルマは4WDで、雪が積もるとやたら走り回って雪上ドライブのテクニックを磨いた。

2月に、祖父が他界したという知らせで急遽クルマで東京に向かうが、折悪しくドカ雪。
これが冬型の雪なら逆にやりようもあるのだが、春先に多い南岸低気圧型の雪。
山形で出発の準備をしているあいだにも、ボタン雪が1時間に10センチも積もる。
冬型の雪なら、峠を越えて福島県に入ればぐっとコンディションが良くなるのだが、
難儀して峠を下ると事態はますます悪化。
東北自動車道も除雪が追いつかず閉鎖。一般道をのろのろ南下することに・・・
栃木県の南部あたりでやっと高速に上がれたが、徐行徐行で、
東京に着くのに15時間もかかった。

3月、選抜高校野球の取材チームに入り、初めて甲子園へ。

日に日に春めいてくる季節、マンションのバルコニーから見る蔵王や、
はるか南方に見通せる吾妻連峰の残雪。
下界は緑がもくもく湧き出すように濃くなる。これがみちのくの春。
乙女座の真珠星スピカが宵空に澄んだ輝きを見せる季節は本当に気持ちが良い。
84年は5月に火星の中接近があった。
夜毎スピカの東側、天秤座の諸星にまじって、蔵王の傍らにオレンジの火星が顔を出す。

この頃、山形の自宅には6.5センチセミアポ短焦点のP型赤道儀だけを置いていたので、
惑星観察などを真剣にやった記憶は薄い。

8月の暑いさかりは全国高校総体の取材・放送班で秋田に長期出張。
ロサンゼルスオリンピックと併せて、星よりも暑さとスポーツ漬けの夏であった。

地元の地方気象台に頻繁に出入りするようになり、ラジオのローカル番組で
「お天気もの」をレギュラーで持つようになったのはこの頃。
もともと地学系出身で、大学で講義を取ったり、興味もあったわけだが、
以後の気象台の人たちとのかかわりが、のちのちの気象予報士へと繋がるのは間違いない。

9月14日、長野県西部地震発生。御嶽山の山腹崩壊で濁川温泉が丸ごと消滅。
これも地学系の血のなせる業だが、前年の日本海中部地震と併せ、
この頃から地震・津波の本や資料を積極的に集めて勉強しはじめる。
放送局の中で「防災担当」の位置づけを頂戴するようになる。
その後「地震・津波」は「天文・気象」と並ぶ我がライフワークとなる。

1982年に検出された、かのハレー彗星は86年2月の近日点通過に向け
年末には木星軌道にまで到達。
84年中は、まだまだ大掛かりな設備がないと撮影できるような明るさではないが、
さあ1985年は、夢にまで見たハレー彗星との対面がかなうはずである。