私の天文遍歴(巡航編その7)


1987

ハレー彗星や火星の準大接近に沸いた前年に比べ、1987年の天界はちょっと静か。
そんな中でふつふつと沸騰し始めたのが、私の大口径望遠鏡への意欲だ。
この「私の天文遍歴」でも記してきたように、私の望遠鏡は68年に8.5センチ反射経緯台、
72年の15センチ反射赤道儀、78年の6.5センチ屈折赤道儀・・・と数を増やしてきた。
さて、次に欲しくなるのはやはり口径20センチ以上のテレスコープである。
しかし「全国転勤」の定めをもつ身としては、収納と機動性を考えないわけにはいかない。
大口径の屈折望遠鏡は、その図体だけでなく値段を考えても論外なので
ベースはやはり反射望遠鏡である。
日常生活の空間で保管するという条件を考えると口径とF数の割りに鏡筒の短い
カタディオプトリク=反射屈折複合系に進むのは必然の流れであったと思う。
そして口径が20センチ超のカタディオプトリクといえば、これはもう
「シュミットカセグレン」、通称シュミカセしかないのが当時の状況というもの。

1987年当時、国内で販売されていた大口径シュミカセと言えば
老舗「セレストロン(=C社)」か、日本では新興勢力の「ミード(=M社)」に限られていた。
どちらもアメリカ製の鏡筒を輸入して国内販売していたものである。
私はまず「みてくれ」から入った。C社のオレンジ色の鏡筒は私としてはちょっと・・・
M社のインディゴブルーのような鏡筒も、日本では見慣れないものだったが、
まあ私としては「光学器械」のイメージの範囲内であった。
天体望遠鏡販売会社に私の学生時代の友人がいたので問い合わせてみると、
M社の性能は少なくともC社より下ということはなく、光軸調整をちゃんとすれば
シュミカセっていうのは言われているよりずっと良く見えるとの返答。

カタログを取り寄せて、カラーの厚紙で実際の鏡筒の原寸模型を作ったり、
大蔵大臣(もちろん今なら財務相)である家内にあれこれデモンストレーション。
親にオモチャをねだる子供と変わらないmasarukであった。
19年前に最初の天体望遠鏡を買ってもらったときと同じ精神状況なのである。
目指す口径は25センチにした。
C社には35センチというスゴイのがあったが、M社ではこのとき25センチが最大。
87年春先の円相場と販売ルートでは50万を超える価格であった。
それを前述の友人に頼み込んだところ40万台半ばまでの値引きを提示してくれた。
これでキマリ! 家内のOKも取って、ローンを組んで契約。
子供の頃には考えられなかった25センチオーナーとなることを得た。
(この話にはちょっとしたオチがある。望遠鏡が届いてほんの2ヵ月後、
M社の25センチは架台装置が一段階進化した上に、なんと定価が
いきなり30万を切って・・・29.8万・・・販売されたのである。
急速な円高の進行に加え、アメリカのM社と国内代理店の輸入販売ルートが
しっかりと整備されたことによるようだ。 あ〜あ、タッチの差じゃん。
でも欲しいときが買い時なんだよなぁ・・・と自分を慰めたのでした。)

さて25センチは、3ドアハッチバックのクルマにはちょうどいいサイズだった。
早速、ハレー彗星観測でおなじみになった蔵王坊平まで星見物に。
鏡筒はそのままではF10だが、F6.3に変換できるレデューザーも購入したので、
一応、星雲・星団観望にも対応できるスペックであった。
いや〜スゴイ!何がって、特に「球状星団」がスゴイ。
かつて8.5センチから15センチになったとき、ヘルクレス座のM13を見て
その違いに感動したものだったが、15センチと25センチの威力の差は歴然!
中心部まで微光星に分解して、黒ビロードの上にグラニュー糖を撒いたようなその姿・・・。
そしてその微光星のひとつひとつが揺らめき瞬く姿に
「ナマの宇宙」の認識をもうひとつ新たにしたのであった。
M57やM27といった惑星状星雲も素晴らしい見ものであった。
もちろん、蔵王の澄んだ夜空の力添えもあったわけだが、それにしても
昔から見慣れた可愛い姿から、天体写真イメージの世界に近づいたのは確かだった。

光軸調整をきっちりと行ったシュミカセは、友人の言葉通り惑星にも強かった。
木星表面模様のディテイルや土星環の神秘的な立体感、
どれもため息のでる美しさだった。

ミード社製 LX-3 2120
25センチシュミットカセグレン望遠鏡


水晶発信ドライブ内蔵のフォーク式赤道儀
微動装置などはちょっと大味な動きで
いかにもアメリカンなテイストだが、慣れれば
案外使い勝手は良かった。 足元のBOXは
自作の電源装置で、取材カメラ用のNi-Cd電池を流用
         (写真は1987年秋に松江で撮影)

さてNHK入局と初任地山形への配属から丸5年が経過して、
春からは夕方のローカルニュース番組の核である「630」のキャスターに。
報道をやりつつ、高校野球を中心にスポーツとの関わりも相変わらずだった。
そんな中、NHKアナウンサーの常で「異動の時期」をそろそろ迎えようとしていた。
7月、甲子園をめざす夏の高校野球山形大会の中継に追われる日々の中、
ついに局長室に呼ばれた。 さあどこか・・・?
2つめの任地は陸路では約1000キロ西の松江(島根県)だった。
この夏は甲子園への長期出張も決まっていたので、
山形大会の決勝が終わると、身辺整理や引越しの準備、
お世話になった方々との惜別の宴などで連日連夜のてんてこ舞い。
そして荷造りも途中で家族に任せて私は甲子園へ。
現地デスクの配慮で、人事上は松江局所属になっていたにも関わらず
アルプスリポーターとして東海大山形高校のスタンド番を続けた。
2年前(85年)には清原・桑田のPL学園に7対29の記録的大敗を喫した同校だが、
この年は発奮して甲子園で2勝を挙げ、監督、部長先生も転勤のはなむけの言葉をくれた。

8月20日に残務整理と転勤の最終手続きのため、既に家族が旅立ったあとの山形へ。
翌8月21日の甲子園決勝の日に、山形から伊丹(大阪空港)経由で米子空港へ。
伊丹を離陸したYS11は阪神工業地帯の上空を飛び、甲子園の銀屋根と
アルプススタンドのPLの人文字がはっきり見えた。このときのPLは現中日の立浪の代である。
伯耆大山と弓ヶ浜をみながら米子空港に降り立ち、山陰に来たことを実感する。
米子駅から山陰線で松江へ・・・
松江放送局では新たな先輩たちが出迎えてくれたが、この夏に松江に異動してきたのは
アナウンサーの半分にあたる4人という大規模人事で、その晩早速、歓迎の宴がもたれた。
宍道湖畔の静かな料理屋だったが、開けた障子の向こうに見える湖面に揺れる灯りが
なんとも情緒的だったのが印象的であった。

新天地でまず気になるのは「空の具合」である。
松江市は人口14万の、県庁所在地としてはまことにこぢんまりとした城下町。
街中でも星空はそこそこきれいだった。
島根半島を越えて日本海に面したところまで行けばもっと空がいいかと思ったら、
なんと毎夜数多くのイカ釣り漁船の漁火が水平線上にずらり・・・。
漁火といっても、その実態は数百ワットから1キロワットもあろうかという
水銀灯の集魚灯が一隻に何十とぶら下がっているのだからそれは凄まじかった。
後年、NASAが発表した地球上の夜の明かりを写した「夜の地球」映像を見たら、
日本海の漁火が、へたな都市よりずっと明るく写っている。 
海の湿った空気に散乱して、漁火は見事に星消し灯となっているのである。

この事態に、今度はなんとかして中国山地に近づいた。
確かに夜空は暗くなり、天の川もクッキリ見えるのだが、少しネボケ気味なのと、
視界の開けた適度な観測場所がみつからずに苦労した。
蔵王坊平のようにクルマで20〜30分で行けて、海抜も1000m以上という
手ごろな観測地は、標高のだらだら低い中国山地では容易にはみつからなかった。

思えば山陰は、広島で暮らしていた12年前の1975年(昭和50年)夏に
仲間とキャンプに来て以来であった。
私は「住めば都」の典型人だったので、ここにもすぐに馴染んだ。
松江は本当に静かな古い町。
さすがに本場宍道湖畔だけあって、スーパーで扱っているものでさえ、
「シジミ」は大きさの種類も豊富で、身も大きくて美味しかった。

9月23日は中国大陸から東シナ海、沖縄本島を通過する金環日食。
秋分の日に、折りしも夏の国体が開かれている沖縄で金環食である。
全国的にも部分食が見られ、松江では最大70%であった。
当日の松江市は曇り空。 それでも時折うっすら太陽が顔を出し、
6.5センチ望遠鏡で日食の様子を見ることはできた。
金環食のほうは、NHKが沖縄と上空の飛行機からの中継映像を流し、
TV画面を通してリアルタイムで見ることができた。

この大晦日から新年(88年)元旦にかけてのラジオの列島リレー企画の担当に当たった。
「山陰の冬じゃ、初日の出中継なんかまず無理だろうなぁ」と思っていたら、
87年大晦日の宍道湖の向こうに沈む夕日の美しいこと。
言葉では言い表しきれない美しい夕焼け、薄紫の湖面、嫁ケ島の影絵・・・
そして年越しの深夜も、冴えた氷片のような星が瞬きやがて午前0時を回った。
夜明け前に湖面を高さが20センチほどのヴェールのような霧が這ってきたのが神秘的。
小泉八雲のひ孫の小泉凡さんをゲストに、
宍道湖畔の料亭の一室を借りて88年の元旦の生放送。
午前7時半頃だったか、ついに雲ひとつない松江の空に
新年の最初の太陽光線が射し、松江大橋の欄干を染めた。
大橋の上から初日の出に向けて打つ拍手の音まで響いてくる。
それは確かにハーンが描いた、古い松江に重なるシーンと体験であった。

ということでこの稿は、最後だけ、1988年(昭和63年)に食い込んだのである。