私の天文遍歴(巡航編その8)

1988


1988年、昭和63年の元日は冬の山陰には珍しいほどの快晴で迎えた。
初任地の山形から異動して半年。 松江の暮らしにもすっかり慣れた最初の正月である。

松江の冬と山形の冬のいちばんの違いは「風」である。
気温は東北の山形のほうがもちろん低い。
日中の最高気温も氷点下のままという真冬日は山形では珍しくなく、
最高気温が氷点下4〜5℃しかないということもひと冬に何度かはあった。
それに比べれば西国松江の気温はだいぶ高く、真冬日も数えるほどしかない。
しかしながら、1500〜2000m級の山々に囲まれた内陸盆地の山形は風の弱い土地。
冬の強い季節風も月山や朝日連邦がさえぎり、上空を吹き抜けるので街中は案外吹かない。
(その上空を吹いた季節風が蔵王連邦にぶつかって有名な樹氷をつくる)
山形で暮らした5年あまりでいちばん強風だったのは、へたった台風が真上を通過した際の
最大瞬間風速24m/sだった。 
ところが松江は違う。 西高東低の冬型の気圧配置になると西よりの風がどっと吹き出す。
松江市街地の風上側は宍道湖の平らな水面が広がるばかり、その向こうは出雲平野、
さらにその向こうは日本海の海原である。
冬型の気圧配置で吹き出した季節風は障害物なしにまともに吹き込んでくる。
ひと冬に何度か現われる強い冬型の気圧配置になると最大瞬間風速はすぐに30m/s超だ。
特にNHK松江放送局の局舎は宍道湖畔にあるだけにゴーゴー鳴る季節風は凄く、
建物の周囲を歩いているとまともに風上に向けないほどの強風に煽られてしまう。

体感温度は風速が1m増すと1℃下がると言われている。
山形の冬はキーンと冷えて、しんしんと底冷えがしてくる寒さで、雪は上から降る。
松江の冬は、冷たい風に全身の温もりが持っていかれる感じの寒さで、雪はたいてい横なぐり。
個人的には冬に風が強いのは辛い。だから、東北でも蔵王おろしの吹く仙台より、
しんしんと雪の降る山形のほうがある種暮らしやすいと思ったものだ。
かの小泉八雲=ラフカディオ・ハーンが、松江の文化や人を愛しながらも
冬の寒さに閉口して熊本に移っていったというのも、うなずける。
しかも明治時代は気温そのものも有意に低かったし・・・。

さて88年3月18日は、中心帯が小笠原近海を通過する皆既日食。
日本全国でかなり深い部分日食がみられるという天文ファンには嬉しいイベントだ。
この日は金曜日。松江の空はきれいに晴れ渡り、空気も澄んだ絶好の日食日和となった。
私は報道カメラマンと相談してENGカメラを放送局屋上に上げ、
持参した日食フィルターを取り付けて日食を待つことにした。
太陽がかけ始めたのは午前10時。 次第に月のシルエットが太陽に食い込む。
放送局のスタッフも仕事の合間に屋上に来ては、日食見物をしていく。
松江では11時13分に日食の最大を迎え、太陽は直径の62%まで月にかくされた。
最大食の頃には、いくらか日差しが淡くなったのが感じられ、
青空の色は深く、宍道湖の湖面もやや沈んだ色になったのが非常に印象的であった。
また東の空には金星も見出すことができ、白昼に星が見えたというので、
スタッフやアルバイトさんたちが大喜びした。

日食の映像は早速編集して上り回線で東京へ送る。
正午のニュースでは何項目目かに「全国で日食」が取り上げられ、
各地で捉えられた様子がリレーで流された。
そして私たちの撮影した松江での日食の映像も見事に使われたのだった。

ほどなく春センバツのアルプスリポーターとして、甲子園に出張。
私は割り振りで愛媛県の宇和島東高校の担当となる。
学校自体が甲子園初出場で、私も予備知識なし。
宇和島名物の闘牛にちなんだ「牛鬼(うしおに)」の張子を使った応援や、
野球部のマスコットの、野球帽をかぶりバットを持ったタヌキの剥製「ポン吉」が懐かしい。
この宇和島東高校が、あれよあれよと勝ち上がり、なんと初出場初優勝!
スタンドの応援団ともすっかり顔なじみになった私は、優勝の瞬間グランドに向かって咆えた。

春から初夏にかけては金星が宵の明星として、連日夕空を飾り見事な輝きを見せていた。

6月には家内が2人目の出産のために、長男を連れて実家の京都へ里帰り。 
きままな一人暮らしに入る。
25センチシュミカセ望遠鏡をクルマに積んで、郊外で星のつまみ食いをしたり、
当時流行っていたファミコンのドラゴンクエスト(U〜Vあたり?)に休日を費やしたり、
仕事以外は非常にテキトーにすき放題をしていた。

この夏、土星が射手座付近にあり、南天低く静かに輝く。 中国名の「鎮星」が似合う。
土星は公転周期が29年半なので、29年と少々前になる自分の生まれたときに、
射手座の同じあたりに光っていたんだなと思って眺めたもの。
地球では29歳でも、土星なら私もようやく1歳である。

この年は中国地方では梅雨前線が活発で、たびたび豪雨に見舞われた。
夕方の全国放送のシリーズのために中継現場に向かうと、途中の道が水浸しで
中継車ごと立ち往生など、いろいろなことが思い出される。

7月20日の晩、近所のアナウンサー大OBのお宅に、
松江局のアナウンサーがみな集まっての宴会があった。
アナウンサーにも料理腕自慢が多数いる。(全国転勤のあるNHKアナは
地方勤務時代にその土地土地の旨いものを、調理も含めて身に着ける人も多いのだ。)
その日も日中に鳥取の境港の市場まで新鮮な魚介を仕入れに行き、
腕自慢のデスクが見事に調理して、大テーブルに並べたのであった。
アナウンサーや放送の思い出話、興に乗ってピアノを弾き始める先輩・・・。
そんな飲み会が大盛り上がりを見せる中で、字幕ニュースが流れる。
「島根県西部の三隅町付近で時間雨量100ミリ」
もちろん夜勤がいるので態勢的には問題ないが、みんなの顔に緊張も走る。
その晩、自宅に戻った私は深夜まで中国ブロックの終夜ニュースを見ていた。
広島県内で、豪雨による鉄砲水があり、多数の犠牲者が出ているというのだ。
そうこうするうちに午前3時前、京都の義母から電話が入る。
「生まれたよ。男の子。」
かくして7月21日未明に次男が誕生。
かくして我が家の子供はスターブラザーズとなったのである。

夏の甲子園地方大会の中継に汗を流す毎日。
思い出は、江の川高校の谷繁主将。全5試合連続の7ホーマー。
たまたまその全試合を中継するというツキに恵まれた。
全試合HRがかかった決勝戦でホームランが飛び出すと、興奮で声が裏返った。

そのまま夏の甲子園に出張。 中国勢が5代表全校初戦突破と好調で、
その後も江の川は島根県勢としては42年ぶりのベスト8進出と健闘。
優勝も広島商業と、中国勢が頑張った大会だった。

大会中の休日に京都の実家に戻り、次男と初めて対面。
あの瞬間は、やはり忘れられるものではない。
なかなかの美男子と見た。(親ばか)

9月はソウルオリンピック。 クルマのラジオで聞いた男子100m決勝。
カール・ルイスとベン・ジョンソンの勝負に注目が集まる。
結果は9秒79という驚異の数字でジョンソンの圧勝。
ところが数日後にドーピングでメダル剥奪の大事件が発生し、
これ以降、五輪とドーピングの問題が特に顕在化する。

同じ頃、夜空では火星が大接近。 マイナス2等半の素晴らしい輝きで
明るい星の少ない秋の夜空を飾った。 もちろん25センチで表面のディテイルも観察。

9月の半ば過ぎに天皇陛下が緊急入院。
4ヶ月にわたる、重苦しい報道スクランブル態勢に突入することに。
当時、私は夕方の報道「イブニングネットワークしまね」のメインキャスター。
番組途中に必ず、その日の陛下の容態、体温、血圧などを入れるフォーマットが続く。

あとになって思えば数か月なのだが、放送に身をおく者として
とてもとても長く感じた昭和63年の終盤であった。