戦国の流れを変えた豪雨(其の壱)

戦国時代の分岐点

 時は戦国、永禄三年(1560年)。 戦国大名が群雄割拠する時代が、応仁の乱以後かれこれ90年ほども続いていた。 うちつづく戦乱は衰えを見せず、戦国時代はいよいよそのクライマックスにさしかかろうかという頃である。 視点を三河と尾張の境界あたり、すなわち現代の愛知県に向けてみよう。

 当時、駿河、遠江、三河に勢力を張っていた今川義元は、足利将軍のもとでの中央進出を狙い、京を目指そうとしていた。 義元の野望成就のためには、尾張を平定して、美濃、近江と駒を進めねばならない。 時の尾張領主といえば、そう、あの「大うつけ」とさえ囁かれた織田信長である。 27歳の青年武将である信長の気性は、今川の軍勢が己の領国を蹂躙(じゅうりん)することを、許そうはずがない。

 信長は今川方の前線拠点である、大高城、鳴海城(ともに現・名古屋市緑区)を包囲する。 しかし、勢力ではるかに勝る今川軍は主力を差し向けて大高城を解放し、逆に織田勢は苦境に陥る。 今川の軍勢2万5000。 対する織田勢は2000〜3000。 篭城を説く家臣もいる中、この圧倒的な彼我の力の差を覆すには、知略を極めた奇襲に活路を見出すしかないと信長は確信する。 さあ運命の日・・・。

 永禄三年の陰暦五月十九日は、現代暦では6月22日にあたる。 つまり信長の決断は夏至の候になされたことになる。 言い換えれば梅雨の最中ということもできる。

 この日、尾張・三河地方は朝から梅雨の晴れ間、すなわち本来の「五月晴れ」が広がっていた。 大気は雨に拭われて空は青く澄み、初夏の濃緑がむせ返るように匂い立っていた。 夏至の眩い太陽が容赦なく照りつけ、梅雨にぬかった地表の湿気が蒸発する。 蒸し暑さがひとしおつのり始めていた。

 こうした中で信長の家臣、平手左京亮(ひらてさきょうのすけ)は、鼓の音色から、気が陽に転じつつあること。 そしてその陽気の強まりから、午後に大雨が来ることを信長に進言したという。

 この天変に勝機を見出そうと信長はわずかな手勢を引き連れて出陣。 いよいよである。

運命の大雷雨
 
 信長は絵下山(名古屋市緑区鳴海町太子ヶ根付近)の北に陣をおき、斥候を放った。 織田方斥候が小高い丘から見たのは、桶狭間の一角、田楽狭間(でんがくはざま)の松林にいる今川軍だった。 今川本陣は、有利な戦況と過信、加えて蒸し暑さに武装をゆるめ、酒食に興じている姿だったのだ。 

 ほどなく空の様相が急変しだした。

 青空に巨大な入道雲が湧き上がり、田楽狭間一帯の頭上に黒雲となって覆いかぶさりだした。 みるみる周囲は夕暮れのような暗さにおし包まれ、雷鳴も轟きだした。 ほどなく大きな雨粒が地面を叩きはじめ、たちまちあたりが飛沫のヴェールで霞むような驟雨となったのである。

 激しい雷雨の喧騒に包まれた信長の脳裏に電光のような閃きが走る・・・「今じゃ!」

 この機をつかんだ信長勢は、油断と突然の雷雨に混乱する今川本陣に向け、一気に坂を駆け下ったのである。 篠つく雨と雷鳴に幻惑された今川軍は、織田軍勢の急襲に気づくのが遅れた。 これこそ歴史のひとつの転換点である。 

 義元の周囲には300名ほどいたが、混乱の中で切り崩されていった。 義元に、織田の手の者が肉薄する。 ついに信長家臣、服部小平太が義元に槍を突き立て、組み付いた毛利新助が義元の首級をあげた。 桶狭間(田楽狭間)の戦いが日本史の重要なパーツになった瞬間である。 

 次に、気象的な側面からの推理をしてみたい。   (其の弐)へ