戦国の流れを変えた豪雨(其の弐)

梅雨の晴れ間の大雷雨とは・・・

 蒸し暑い晴天から猛烈な雷雨への暗転。 それ自体は誰でも何度か経験したことがあるような場面である。 しかしながら、状況がたまたま歴史に絡んで背景になったのか、それとも人がそれを巧みに呼び寄せ、我が物として味方につけたのか・・・。 やはり、ここは後者といわねばなるまい。

 気象学的観点からみれば、こうした雷雨は強い日差しによる「熱雷」の発生、あるいは、史書が示すような大雷雨であれば熱雷に寒冷前線の南下が重なった「熱界雷」という見方もできる。 しかしいずれも真夏を中心とした現象で、陰暦五月、現代の夏至ということを考え合わせると、ちょっと違う推理もしてみたくなる。

 桶狭間の戦いは梅雨どきである。 梅雨前半の中休みということだから、南岸の梅雨前線上を低気圧がひとつ東に抜けて、低気圧の後ろ側でいったん前線が本州沿岸から南下したと考えよう。 前線の北側とはいえ、強烈な日差しも加わって思いのほかの暑さに見舞われたりすることは、もちろん現代でも間々ある。 前日までの雨水が、アスファルトやコンクリートで固められた現代とは違い、緑や地面、田畑をたっぷり湿らせていて、その水蒸気が盛んに立ち上っていたことだろう。

永禄三年五月拾九日の
仮説天気図
永禄3年5月19日の仮説天気図


 一方、北陸方面から上空に冷たい空気を持った小低気圧が南東進。 下から立ち上る暖湿上昇気流と上空に入る寒気で、東海地方上空の大気は一気に不安定度を増す。 そして濃尾平野上空への寒気本体の流入が急激な雲の発達を呼ぶ。 恐らく岐阜県西部の山間で発生した対流雲が、雄大積雲から積乱雲へと発達し、屹立した雷雲の峰が、濃尾平野を足早に南下して、桶狭間上空に達したのではないか。

まあ、そこそこの線をついた気象推理だとは思うのだが・・・。

 天を味方に、奇襲で10倍の敵をかき回し、大将の首を取った織田信長。 ここから信長の天下布武、秀吉へと受け継がれる天下統一への扉が開かれる。

 一方、一瞬の油断で齢42にして命を落とした今川義元。 桶狭間以後、彼は死して、信長の永遠の引き立て役を務めるハメになったのである。