翔けめぐる衝撃波

描針が動いた!


1956年、すなわち昭和31年5月21日。
東京の日の出は4時31分。 月曜の朝を迎えた都心の空はよく晴れ渡っていた。
焦土の記憶も遠くなり、「もはや戦後ではない」の言葉も聞かれる日本は、
60年代へと引き継がれていく高度成長期の緒に就いたところであった。

官公庁街にも、まだ人の姿はまばらな午前6時過ぎのこと。
大手町の気象庁本庁の微気圧計の描針が、突然スーッと生き物のように動き出した。
静かな朝を迎えた東京の初夏の空を、何者かが駆け抜けたのだ。
1956年5月21日東京の微気圧振動
1956年5月21日 東京の微気圧計記録
左の矢印(午前6時3分)のところで、
気圧の微小上昇のパルスが現れている。
観察者は右矢印の6時21分頃まで、
その余波を追跡しているようである。
                 
気象庁資料室
微気圧計(マイクロバロメーター)は、周期の短い気圧の微小変動を常時モニターしている。

全国の観測点にも現れたこの微気圧振動波形の発現時刻をもとに発振源を突き止めると、
それは日本のはるか南東の海上であることがわかった。

実はこの日の未明、日本時間の午前2時51分に、
アメリカは中部太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で、
当時の最新戦略爆撃機であるB52を飛ばして、水素爆弾を航空機から投下する初実験を行った。
これはレッドウィング作戦と名づけられた、ビキニおよびエニウェトク環礁を舞台にした
17発もの原水爆実験シリーズの2発目の爆発。
B52の爆弾倉を離れた、直径90センチ、長さ3.45メートルの、コードネーム「チェロキー」水爆は、
ビキニ環礁の上空1300メートルで炸裂。
広島に投下された原爆リトルボーイの約290倍に相当する3.8メガトンのエネルギーで
大気に激しい衝撃を与えたのであった。


水爆チェロキーの炸裂
水爆チェロキー、膨張する火球
水素爆弾は核融合を原理とする点で、
太陽や恒星と同じ熱源の解放という見方ができる。
しかしひとたび点火されたそれは、人の手の制御を離れ
あらゆるものを焼き尽くす、地獄の業火となるのだ。

                 マーシャル諸島ビキニ環礁上空
冷戦と国威発揚の1950年代。大気圏内の原水爆実験は、
国際政治力学の接点で散る火花の如く、大気を死の灰と衝撃波で揺さぶりながら繰り返された。

史上最大の核爆発
1950年代後半から60年代の前半にかけては、冷戦下の米ソが、
核爆弾の性能をその「威力の大きさ」に求めた時期である。
1950年代の終わりには古典的ICBM(大陸間弾道ミサイル)も登場していたが、
目標到達の精度という点では現在とはケタが2つも3つも違う時代である。
となれば、多少目標から逸れてもターゲットにダメージを与えられるように爆発力を大きくする・・・。
こうした思考が大メガトン級核爆弾の実用化と、度重なる実験の下地となっていたのだ。
さらに、核爆弾はその性質上、威力の大小とコストは必ずしも連動せず、
爆発力コストという観点なら、大型水爆のほうが「安上がり」なのである。

スーパーパワー(超大国)が、競うように核実験を行ったこの時代に、
史上最大の核実験として現在も記録に残る水爆実験が行われた。

1961年10月30日にソ連が北極圏のノヴァヤ・ゼムリャ島上空で行った水爆実験の威力は
58メガトン、すなわちTNT火薬換算で5800万トン分というとてつもない規模であった。
これ一発で広島原爆(13キロトン)4500発分の威力ということになる。
当時のソ連首相フルシチョフが、実験2週間前の共産党大会で
「一連の核実験を50メガトン水爆で締めくくる」と表明したことにアメリカ側も驚き、
50メガトン核実験の中止を呼びかけるという異例の行動を生んでいる。


史上最大の水爆
史上最大威力の核爆弾
現在、ロシア原子兵器博物館に横たわるその巨体。
Tsar Bomba (King of Bombs)と呼ばれる水爆は
威力をフル選択すると100メガトンに達するとも言われる。
その場合はさらに多量の死の灰を生み出し、
この爆弾3発を津軽海峡付近、関東、瀬戸内で爆発させると
日本本土全体が放射能汚染されてしまう。
冷戦が終結して、ロシアもグラスノスチ(情報公開)で旧ソ連時代の様々な資料が出てきている。
その中で、この50メガトン水爆実験の記録映画を目にする機会があった。
ソ連の重爆撃機の爆弾倉に入りきらず、爆弾倉の扉を取り外してくくりつけられていた。

パラシュートで投下された水爆は高度3600メートルで炸裂。
その爆発による火球の出現は、地平線にまばゆい太陽が昇るが如しであった。
この58メガトン水爆一発で、ノヴァヤ・ゼムリャ島の四国に相当する面積が、放射線と熱線に
焼けただれた砂原と化し、その数倍の土地と海が放射能汚染されたのである。

この最大規模の水爆実験の衝撃波は、世界中の微気圧計に明瞭な記録を残している。

ノヴァヤ・セムリャの位置 衝撃波の伝播
地表を伝播する衝撃波のイメージ
左=ノヴァヤ・ゼムリャと日本の位置関係。
ノヴァヤ・ゼムリャ島は北緯71〜77度。
全体がすっぽりと北極圏内に収まっている。

右=水爆の爆発と同時に出発した衝撃波は
目には見えないながらも音速で突き進む
空気の壁となって地球表面にそって進む。
                    CG=masaruk
微気圧計記録(稚内) 微気圧計記録(米子)
国内で記録された58メガトン爆発の衝撃
1961年10月30日
左=
稚内 微気圧計による衝撃波到着は
午後10時ちょうど。最大振幅1.8ミリバール。
右=米子 衝撃波到着は10時41分。
最大振幅1.6ミリバールが記録されている。
そのほか、釧路は10時14分、
室戸岬では10時58分。波は北西から南東へ。

             いずれも気象庁資料室
ノヴァヤ・ゼムリャ島から日本までの大圏距離は、シベリアを突っ切って約6000キロメートル。
核爆発からおよそ5時間後の、日本時間30日午後10時頃から、全国8か所に設置された
微気圧計が、シャープな初動を捉えだしたのである。

図でわかるようにかなりシャープな変化だが、この微気圧振動を人体が感じることはできない。
国内観測点の初動到着時刻の差から求めた、微気圧振動の伝わる速度は秒速310〜320メートル。
この微気圧振動はほぼ音速で日本列島を通り抜けたことになる。
ところで、話はまだ終わらない。
実はこの30日夜の衝撃波の通過から丸1日の後。今度は反対の方角(南東)から
微気圧振動がやってきたのだ。 これは何か・・・
水爆が爆発したときに日本とは反対側に広がった衝撃波が、ヨーロッパ、アフリカ、南極を経由し、
遠回りして日本にやってきたものだった。
結局、このソ連の58メガトン水爆実験に際しては、世界各地の観測所が、
衝撃波が地球を3周するところまで追跡したのである。 メガトン水爆恐るべし。

微気圧計よ安らかに

1963年に米・英・ソは、大気圏、水中、宇宙空間での核爆発を禁じた、
「部分的核実験禁止条約」に調印。 同調しなかったフランスは74年、中国が80年まで
大気圏内核実験を強行したが、現在はいずれも地下ないしは海底岩盤内での核実験に移行した。
つまり・・・大気圏内実験がない現在では、微気圧計が核実験をキャッチすることは基本的にない。
現在、核実験の波紋を拾うのは高感度地震計の独壇場である。
となると・・・次にもし微気圧計が核爆発のパルスをキャッチするときが来たら、
それは実験ではなく、紛争地などで核兵器が実戦使用されたことを意味する可能性が
限りなく高い。

微気圧計よ。衝撃波に揺さぶられることなく、安らかに眠れ・・・。